四日市に誇れる遺跡がある。この「山奥遺跡」がその一つである。
ぼくも、このわが街四日市のページを作るにあたって四日市を調べる課程で、
幾つかの遺跡について調べたが、山奥遺跡は、そのうちの一番重要な遺跡だった。
そんなとき、山奥遺跡で、発掘調査の説明会があるというのを聞きつけて
普段は入れないこの遺跡の見学を兼ねていった。
遺跡や古代のことに興味ある人が多いのか、このイベントには100人くらいの人が
あつまっていた。
場所は、県道上海老茂福線(旧富田山城有料道路)沿いで、
スーパーサンシやMr.Johnよりもう少し西にいったところ。
あおい幼稚園ふきんや、その道を挟んだ向こう側が、「山奥遺跡」だ。
今、急いでこの遺跡の発掘作業をしているのには訳がある。
それは、「北勢バイパス」が通るからだ。
23号線や1号線のバイパスとなる大きな道、それをこの遺跡の上に作るから、
いま、急いで発掘しているのだ。
もちろん、バイパスが通ったら、この遺跡はなくなる。
この遺跡は、実は、だいぶ昔の昭和52年から、調査されている。
富田山城有料道路を作るためなどの調査や、霞ケ浦コンビナート埋め立てのための
土砂採取のための調査である。
そのときには、
五角形をした日本でもとても珍しい形をした竪穴式住居が1基見つかっている。
ここには、たぶん、この集落を統治する長が住んでいただろうといわれているが、
いまは、あおい幼稚園となり、現存していない。
今は、北勢バイパスのための調査として、第6次調査まで行われた。
この遺跡は、土器などから、弥生時代後期と、古墳時代後期のものだろうと
言われている。なぜか、古墳時代前期の住居は、1基しか見つかっていないが、
まぁ、弥生時代からずっとこの地でたくさんの人が住んでいたことだろうと思われる。
今までの調査で、竪穴住居跡は123基も見つかった。
このようなたくさんの住居跡が見つかったのは、県内でもほとんどなく、
とても重要な遺跡だといえる。
竪穴式住居を作る時には、まず、四角の溝を掘る。これは、わらぶきだと、中に雨が
入ってくるわけである。いわゆる雨漏りをするわけで、その水を住むところに残さないように、
回りに溝を作って、そっちに水がいくようにする。
その後、柱を立てるため、その四角の溝の内側に4ヶ所、穴を空ける。
そして、そこに柱をたて、住居を作っていくわけである。
この柱の跡になる物が、遺跡で良く掘られている穴ぼこになっている。
でも、べつに、その弥生時代や古墳時代のものでもない穴ぼこも多いために、
関係ない部分にもたくさんの穴が掘り出されてしまうわけである。
で、一度、柱を立てるために、穴を作るわけで、その穴が、今、見つけられることになるので、
住居の柱の跡があったからといって、その住居がどのくらい建っていたのか、
何人の人が住んでいたのか、何世代に渡って住まれていたのか、
まったくわからないのである。
でも、面白いのが、わらぶきで、その真ん中で火をたいているわけで、
火事も起こるわけである。
その火事が起こった跡も残っていたらしい。
この左の写真のように、わらが黒く燃えた跡が、出土された。
今は、調査のため、この黒いわらの燃えかすは取り除かれている。
また、今回、4つの住居が重なり合うように見つかったところもあった。
この右の写真を見ると、4つの溝がある。
4つとも、四角い形をしており、竪穴式住居をかたどっていたものだとわかる。
たぶん4つはそれぞれ、別の時期に建てられた住居だったのだろう。
ちょうど同じ場所に、4回、違う住居が建てられたため、
4つの住居跡が重なって出土したのだとおもわれる。
また、今回の調査で、住居を四角に囲んである堀のような溝から、
排水溝が伸びているのが見つかった。
それも、トンネル状になっていたという。
いまは、調査のため、その上の部分は外されているが、
どうも、ずっと先(この左の写真では手前)に伸びていたらしい。
そこからもいくつかの土器が発見された。
この排水溝は、他のところでも1ヶ所見つかっているが、
あまりこんなにはっきりした形で見えるのもまれである。
また、住居跡の中には10m級のものもあり、このような大きな住居は、
ここの集落の長が住んでいただろうと言われている。
住居の真ん中には、どこも、赤く土がこげた跡があり、
そこで、土間みたいなのを作って火を燃やしていたのだろうと思われる。
火をたいて、その上に、土器を置いて、土器の中で、いろんな食べ物を
似たり炊いたりしていたのだといわれている。
そんな土器、この遺跡からもたくさん出土している。
ここからは、弥生時代後期〜平安時代までの土器がでている。
弥生時代のものは、「弥生式土器」といわれ(そのまんまやけど)、
古墳時代は、土師器(はじき)・須恵器(すえき)の二種類がある。
これは、はじきの方は、弥生式土器に似て、野焼き状態で作るもの、
すえきは、窯を作って作ったもので、弥生式やはじきは、茶色っぽい色に対して、
このすえきは、グレー色をしている。
で、平安時代のものは「平安灰釉陶器」というものが見つかっているが、
これは、古墳時代のすえきと同じ。グレー色。
で、その中でも、特筆すべきものは、この写真にある
「特殊扁壷(とくしゅへんこう)」と「土製模造鏡(どせいもぞうきょう)」だろう。
特殊扁壷の方は、全国で19個しか見つかっていないという、
本当に珍しいもの。
丸いもので、真ん中に穴が空き、丸い一方はなにか出し入れするためか、開いている。
ほんと変わった形なので、文章で表現しにくいのだが、
これは、何に使われていたのか、さっぱりわかっていない。
まぁ、なにか占いとかに使われたのでは?といわれている。
土製模造鏡の方は、これは、べつに物自体はそう珍しくなく、
土で作られた鏡であり、この写真で見えているのは、鏡の裏側、もつ部分があり、
その裏には、鏡らしきものが貼ってあったのだろうと思われるのだが、
このすごいことは、これが、弥生時代のものとして見つかった。
土製模造鏡は、古墳時代のものとして定着しており、
弥生時代のものが見つかったのは初めてのことで、
定説を覆せれるのでは??と言われている。
そんなすごいものである。
それ以外に、鉢も見つかっており、土器の中で土で作った鉢が見つかったのは異例だという。
他にもワイングラスのような形をした土器も見つかっている。
他にもいろんな珍しい土器が見つかっている。それもけっこう、完全な形で出てくるのが多く、
今後の調査にも期待できるのではないでしょうか。
(って、いつかは北勢バイパスでつぶされるんだけども)
問合せ先:四日市市教育委員会事務局文化課 TEL0593−54−8240、FAX0593−54−8308
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